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「探偵物語(80)」


わたしは今、東京の中央線の沿線の駅で降りて、住宅街が広がる風景の中にいます。
特に特徴もない、密集した住宅街を歩いています。
ここ数日行っていた都内の調査がやっと終り、ふと思いついて、その駅で下車したのです。
手に持っていたカメラで、辺りの風景を撮っています。

わたしは大学を卒業して、都内の探偵事務所に就職しました。
それから数年後に、ある調査を命じられました。
簡単な身元調査です。
都心に勤める独身女性の調査で、調査事項に難しいものはありませんでした。
数日で調査は終りましたが、変わっていたのは、調査依頼の一つに女性の通勤路の撮影が入っていたことです。
女性のマンションから駅まで、通勤する道沿いを撮影して、報告書と一緒に提出することです。



上は今回の撮影ですが、あの時の通勤路で、このようなスナップを何枚も撮って提出しました。
依頼主は入院中の青年で、仕事中の事故で腰部の複雑骨折を負い、重傷の身でした。
ほとんど寝たきりで、写真を渡すと食い入るように眺めていました。

どうも、青年は調査対象の女性に恋をしていたようです。
しかし彼女のことをほとんど知らないうちに、怪我にあって入院してしまった。
つまり一目惚れで、居ても立ってもいられない状態で、ともかく彼女のことが知りたかったようです。
身近に頼める友人でもいれば、探偵を雇うこともなかったでしょうが、生憎そういう人に恵まれていなかったのでしょう。
あるいはシャイな性格で、知合いには打ち明けられなかったかもしれません。



曇空の住宅街、面白くも何ともない風景、写真です。
しかし青年は、隠し撮りした彼女本人のポートレートと同じように、これらの写真を時間をかけて眺めていました。
まるで、街に恋しているかのように。

ミュージカルの名作に『マイ・フェア・レディ』があります。
映画にもなって、ヒロインをオードリー・ヘップバーンが演じました。
その時わたしは、青年の姿を見ていて、このミュージカルを思い出しました。
『マイ・フェア・レディ』には名曲が幾つかありますが、『君住む街角』(On the Street Where You Live)もその一つです。
歌詞の大意はこのようなものです。

いつも歩いているこの通りに、恋しい人が住んでいる
それを知った時、わたしの心は天にも昇る気持ち
この通りのどこからも、歓びが溢れ出ている
世界中のどの場所よりも、わたしはここにいたい
あなたの住むこの街角に



何の変哲もない自転車も、恋しい女性の自転車だとしたら、違って見えるかもしれません。
しかし、ただの通行人が見たら、日常以外の何物でもありません。
目にも留まらない、風景です。

そういう写真が、個室の病室に何枚もピンで留めてありました。
調査報告が終り、後日改めて領収書を持参した時のことです。
ベッドに寝ていながら眺められるよう、写真は足下の先の壁に貼られていました。
わたしの撮った何の工夫もない街の写真ですから、病室を訪れた人は、恐らく奇異に感じたでしょう。
しかし青年はごく普通のことのように、写真を壁に貼って、眺めています。
それだけが楽しみのように。



その後のことは、知りません。
調査に問題はなく、事務所には礼状まで届きました。
青年がいつ退院したか、彼女に思いを告げることが出来たかどうか。
まったく知ることもなく、わたしは次から次へと調査に明け暮れました。

人に恋するということは、多くのことを含みます。
恋する人の住む駅に降り立った時、胸が高鳴った経験のある人は、多いと思います。
あるいは、いつも見ている風景が一変した経験はありませんか。
『君住む街角』のように。
逆に、失恋で、街が一気に色あせた経験は・・・・。

そんなことを考えながら、取りたてて面白いとも思えない風景を、わたしは撮り続けています。
もしかしたら、誰かにとっては、かけがえのない風景かもしれないと想像しながら。