iの研究

第八十一回 <歌謡>の研究
「反乱の季節」 昭和の歌謡⑦


1960年代末、若者の反乱が起きました。
これは日本だけではなく、世界の近代国家で起こった出来事です。
その中心にいたのは第二次世界大戦後に生れたベビーブーマーの世代です。
日本では団塊の世代と呼ばれた若者です。

その時代に流行った歌謡曲で代表的なのは藤圭子「新宿の女」です。
反乱の中心地、新宿を舞台にした艶歌(五木寛之の命名)です。
しかし今回はあえてそれをハズして、二人の女性歌手の歌を取り上げます。
一人はカルメン・マキの「時には母のない子のように」、もう一人は加藤登紀子の「知床旅情」。
(反乱する若者の最も支持を得たのは岡林信康ですが、フォークの人なのでここでは触れません。)

カルメン・マキはアメリカ人と日本人のハーフで、美少女でした。
その容姿と感情を込めない淡々とした歌唱が際立った歌手ですが、彼女を有名にしたのは寺山修司です。
寺山修司は劇団天井桟敷の主宰者で、カルメン・マキは劇団員でした。
「時には母のない子のように」の歌詞を手掛けのも寺山修司。
寺山修司は劇作家、歌人、映画監督、評論家など多面的な才能を持った人で、テレビへの露出も多く、時代の寵児といった存在でした。
1960年代末は政治と文化が入り乱れた特異な時代でしたが、今振り返ると最も収穫のあったのは演劇だと思います。
寺山を始め、現代人劇場の蜷川幸雄、状況劇場の唐十郎、68/71の佐藤信、早稲田小劇場の鈴木忠志。
そうそうたるメンバーがこの時代に反近代を掲げたのです。
わたしも幾つかの芝居を見ましたが、ほとんどわけも分からず、その熱気の強烈さだけを憶えています。

「時には母のない子のように」はフォーク調の歌謡曲ですが、騒乱の時代に反して静かな曲調、歌唱です。
ハーフの美少女の語りのような歌いと哀愁のあるメロディーラインがヒットに結びついて、その年(1969年)の紅白歌合戦に出場しています。
従来の歌謡曲のクサみがなく、かと言ってフォークのような四畳半でもなく、歌人寺山修司の才が秀でた歌謡曲でした。



加藤登紀子は東大卒のシャンソン歌手でしたが、一躍時の人となったのは結婚です。
相手は著名な学生運動リーダーの藤本敏夫で、獄中結婚です。
学生運動のシンポル的存在と東大卒の歌姫の結婚は、学生の間で話題となり、時代を印象づけるカップルとなりました。
しかし、内ゲバに嫌気がさした藤本敏夫は運動を離れ、有機農法の道に進みます。
加藤登紀子も学生運動とは距離を置きながら、歌手としてキャリアを積んでいきます。

加藤登紀子最大のヒットである「知床旅情」は森繁久彌の作詞作曲です。
森繁本人のレコードも出ていて、軽妙さに味があり、これも捨てがたい歌唱です。
加藤登紀子は格別に歌のうまい歌手ではありませんが、透明感のある声質と軟らかな歌心に優れています。
その特質が「知床旅情」では遺憾なく発揮されていて、1971年に大ヒットになりました。

「知床旅情」はどことなく唱歌のような懐かしさを感じさせる歌謡曲です。
これもあの反乱の季節とは一見無縁のように思えます。
しかしわたしにはあの時代だからこそ生れた歌のようにも思えます。
それは物静かな「時には母のない子のように」同様、ナイーブな心情もあの時代にはあったからです。
激しく闘争的な心情と同居していた、穏やかで淋しげな感性。
もしくは、近代に逆行するようなノスタルジー。
それをうまく掬ったのが、この二つの歌謡曲だったような気がします。

「時には母のない子のように」

「知床旅情」