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iの研究


第十三回 <宇宙>の研究


わたしは一人遊びが好きな子供でした。
空想の世界に入っていろいろ遊んでいました。
そういう少年にとって
<宇宙>は恰好の遊び場でした。
現実から遠く離れた遥か彼方に意識を遊ばせていると、知らないうちに時間が過ぎていきました。
こういう少年がそのまま大人になるとロマンティストと言われます。
つまり、恥を忍んで言えばわたしはロマンティストなのでした。

例えば、こういう話です。

私たちの住む銀河系の直径は約10万光年あります。
光の速さで飛んでも10万年かかる距離です。
厚さは1万5千光年で、凸レンズの形をした円盤の様な形態です。
銀河系には1000億個以上の恒星(太陽のように光る星)が含まれていいます。
この中に地球を含む太陽系が浮かんでいます。
太陽系は銀河系の中心から約3万光年離れたところにあります。

如何ですか?
頭がクラクラしませんでした?
太陽系は銀河系から約3万光年も離れている。
つまり、光の速さで3万年もかかります。
しかも、銀河系は<宇宙>の一部なのです。
そこに、わたしはロマンを感じてしまいます。

さて、先日の皆既月食はご覧になったでしょうか?
月がだんだん欠けていき太陽の光が直接届かなくなった時、月は赤銅色の球体になりました。
球体の月を見たのは初めてです。
いつも見ている月は平面に見えます。
それがボールの様な立体に見えて、それが夜空に浮いている様は新鮮な驚きでした。
赤みがかった色も何とも言えない美しさでした。
神秘的な月の姿をぼんやり見ていると、つい
<宇宙>の不思議さを考えてしまいました。
<宇宙>に涯はあるのだろうか?
涯があったとしてその向こうはどうなっているのだろうか?
<宇宙>と人間の関係はどうなっているのだろうか?
この
<宇宙>を支配する法則はあるのだろうか?
わたしはホーキンス博士ではないのでそれらを解明するのは不可能です。
これを読んでいる方もそんな事は期待していないでしょう。
今回は、二本の映画を軸に
<宇宙>と人間の関係をロマンティックに研究してみたいと思います。




「2001年宇宙の旅」、この映画はご存知ですね。
1968年の制作です。
わたしは日本公開された同年に今はなきテアトル東京で観ました。
銀座一丁目にホテル西洋、旧セゾン劇場があります。
あそこにテアトル東京はありました。
この映画館は東京で唯一のシネラマ上映館でした。
シネラマというのは70mmよりも大きい、上映サイズとしては今までで最大の形式です。
テアトル東京のスクリーンは床から天井までありました。
とても大きなスクリーンです。
そのテアトル東京に於て、「2001年宇宙の旅」はシネラマ形式で公開されたのでした。

あれから32年が経ち、来年は2001年です。
何か感慨深いものがあります。
あの映画を観た時、自分が映画の舞台となった2001年を実際に迎える事はとても想像出来ませんでした。
今回この研究を書くにあたってこの映画を又ビデオで観てみました。
「2001年宇宙の旅」は難解な映画と言われます。
公開当時も、今も言われています。
わたしもそう思っていました。
しかし改めて観てみると、決して難解な映画ではありませんでした。
説明が省略されているのと、後半のサイケデリックなシーンの唐突さで難解にみえるだけで、哲学的でも何でもありません。
実にエンターテイメントな映画でした。

この映画のテーマは「進化」です。

類人猿が道具を持つことによって人類に進化し、その道具が意識を持つことで人類と変わらない存在になり、人類は道具との歴史に終止符をうって次のステップに進化する。

ストーリーはこれだけです。
意識を持つ道具とはコンピューターのことです。
史上最も有名なコンピューター、HAL9000がそれです。
セリフも非常に少ない。
というわけで、映像と音楽/音響が全てを語ることになります。
その力量は今観ても驚きます。
しかも、まったく古びていない。
この映画でスタンリー・キューブリックはカルトな監督となりました。





「進化」を司るのはモノリス(石版)です。
モノリスの正体は<宇宙>の意志です。
あるいは神と言ってもいいでしょう。
<宇宙>の意志によって人類が生まれ、再び<宇宙>の意志によって人類は人類でないものに進化をとげる。
これ以上の事は映画で語られていません。
<宇宙>の意志が何であるか?」といったややこしい事には一切触れていません。
「サルが人間になって、人間が人間でなくなるのを映画にしてみなさい。ただし、できるだけ簡潔に。」と言われてその通り作った映画です。
その映画が素晴らしいのです。
この映画の映像と音楽/音響に多くの人は想像力の翼を拡げ、いろんな解釈を生み、伝説と化したのでした。
まぁ、実にロマンティックな映画です。
広大な宇宙に浮かぶ夢のようなスペースシップがゆっくりと進む、バックには壮大なヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」が流れる。
ここで電子音楽を使わなかったのがキューブリックの冴です。
ワルツです。
素敵ですね。
考えてみれば、シネラマは映画が見せ物=エンターテイメントである事を最大限に示した形式です。
シネラマ=娯楽です。
その形式に哲学的なテーマを持ち込むのは野暮です。
観客は夢を見に行っているのですから。
キューブリックは野暮ではありませんでした。
私たちに夢を見せてくれたのですから。
(もっともそこに哲学的テーマを見つけるのは観客の自由ですが。)

この映画が制作された1968年は非常に微妙な年です。
この翌年にアポロ計画でアームストロング船長が月に人類の一歩を刻んでいます。
アメリカの<宇宙>計画の絶頂期です。
1970年の大阪万博は、その時採取した「月の石」が長蛇の列を作りました。
しかし、すでにアメリカはベトナム戦争の泥沼に入っていました。
<宇宙>に力を注ぐ余裕がなくなっていました。
言葉を換えれば、<宇宙>に夢を見る余裕がなかったのです。
<宇宙>夢の対象であったギリギリが1968年です。
そして、ニューシネマが押し寄せてきたのもその年以降でした。



「ミッション・ツゥ・マーズ」(以下「M2M」)は2000年制作のSF映画です。
この映画は「2001年宇宙の旅」へのリスペクトとして作られました。
(これはわたしの推測ですが、外れていないと思います。)
監督はブライアン・デ・パルマです。
わたしはデ・パルマの「殺しのドレス」でファンになりました。
サイコキラーが主人公の映画です。
この人も言わば映像派です。
しかもヒチコックの後継者ですから、変態性も持っています。
そこもわたしの好みです。

「M2M」は「2001年宇宙の旅」同様、「人類は何処から来て、何処に行こうとしているのか?」をテーマにした映画です。
舞台は2020年です。
しかしながら、その未来には「2001年宇宙の旅」を観た時の様な驚きはありません。
今日とそんなに変わらない未来です。
オープニングシーンは、アメリカ家庭の伝統である何の変哲もないバーベキューパーティ。
ひょっとしたら、未来を夢見る力をわたしたちはこの32年で失ったのかもしれません。

ストーリーは「2001年宇宙の旅」より複雑です。

2020年、人類は火星に着陸した。
しかし、そのクルーは一人を残して全滅する。
「ある事態」が起ったのである。
残されたクルーを救うためミッションが発動される。
救出を目的としたマーズ2号には一組の夫婦と若者、そして主人公のジムが乗り組む。
ジムは同僚でもあった最愛の妻を病気で亡くしてから宇宙への興味、情熱を失っていた。
残されたクルーと夫婦とジムは親友でもあった。
ジムはその技量を請われ、親友を救出する為自らも進んで危険な任務に就く。
火星着陸の直前のアクシデントにより、クルーは夫婦の夫を失う。
マーズ2号のクルーは何とか火星に着陸し、救出にも成功する。
そして、「ある事態」の解明にむかう・・・・・・・。

ストーリーの軸になるのは夫婦愛です。
あるいは夫婦に限らない人と人との結びつき、と言ってもいいかもしれません。
しかしながら、そこが良く解らない。
マーズ2号のクルーである夫婦はただベタベタしているだけ。
最初から最後まで。
どこで結びついているのかさっぱり解らない。
着陸寸前のアクシデントでその夫婦愛がドラマティックに展開されるのだが、これ又さっぱり説得力がない。
同じSF映画の「アビス」の夫婦愛に比べれば、こっちに伝わってくるものが圧倒に少ない。
(「アビス」を観た時、わたしは不覚にも涙がでました。あのシーンは秀逸です。)
ジムが妻を失った哀しみも説得力がない。
つまり、ラストでジムが救済される伏線が弱い。
これは、監督の資質ではないかと思います。
デ・パルマは良い監督なんですが、マトモな人を主人公に据えると駄目だと思います。
やはり、変人、変態が主人公でないと。



「ある事態」とは何であったのか。
それは、<宇宙>の意志が人類に送ったシグナルでした。
そのシグナルに応えることによって、人類は次のステップにむかいます。
選ばれたのはジム。
彼は自己の喪失した愛を救済するために、人類として火星から<宇宙>に旅立つ。
そして、新たな生を誕生させる。
それが、選ばれたジムのミッション(任務)です。

この発想は多分に宗教的発想ですね。
愛の喪失を、より大きな愛の獲得で補う。
喪失をマイナスと捉えないで、より大きな愛へのきっかけと考える。
<宇宙>の意志と愛との関係には一切触れなかった「2001年宇宙の旅」とは随分違います。
<宇宙>の意志は、人間的な愛とは関係なく、ある法則にしたがって働く。
<宇宙>もある法則にしたがって、ただそこに存在するだけである。
それが、「2001年宇宙の旅」でした。
その方則が何であるかは観客の想像力に任されていました。
これの方がロマンティックだと思いません?
「2001年宇宙の旅」では人類の進化の先は示されていません。
つまり、想像も出来ない生物に人類は進化するのです。
しかも、想像は出来ないがグッドな方向である、と映画は暗示していました。

「M2M」の進化は言ってみれば繰り返しです。
<宇宙>の意志によって人類は誕生し、その人類が種となって再び類を生む。
愛の輪廻とでも言えるのでしょうか。
これはちょっと退屈ですね。
ま、ある意味ではロマンティックとは言えますが。
ロマンティックのスケールが小さい。
わたしはそう思いました。
でも、「M2M」も観て損はない映画です。
ジムを演じるゲイリー・シニーズは良い役者です。
悪役が多い人らしいですが、あの澄んだ眼と無垢な表情は一見の価値ありです。
それと、デ・パルマの映像はやはり華麗です。

<宇宙>とはどういう構造を持っているのでしょうか。
<宇宙>の意志はあるのでしょうか。
それが解るのが先か、人類が滅びるのが先か?
多分、人類が滅びるほうが先でしょうね。
でも、<宇宙>が未知のものとして存在する事は決して悪いことではないと思います。
未知だからこそ、わたしたちの想像力が生み出される余地があるわけです。
日本の物語の祖といわれる「竹取物語」は、かぐや姫の月への昇天で終わります。
あの時代、月は人々にとってどんな存在だったのでしょうか。
未知の月への想像力があの物語を生んだのかもしれません。
だとしたら、未知は一つの力です。

2020年に、2040年を舞台としたSF映画が作られるかもしれません。
わたしは可能であればそれを観てみたいと思います。

<第十三回終わり>




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